瀟湘八景図


 <はじめに>


  ここでは、私が好きな「瀟湘八景図」について紹介します。

・水墨画の中の「瀟湘八景図」

我が国における水墨画成立は鎌倉時代末に認められ注一、中国、主に宋元時代の文化・文物の摂取と普及の中心的場であった禅林に支持されつつ時代的な展開を遂げていった。水墨画というものが、全く新しい形式であり、新しい内容を持つものであったため、主題・画法・様式など絵画表現の全般にわたって中国のそれを典拠としなければならなかった。山水画という自然の景観を対象とするものにおいても例外ではなく、中国文化への傾倒に支えられて我が国の画人たちの課題となっている例は数多くある。「酔翁の意は、酒にあらず。山水の間にあり。注二」と言われるように古来数え切れぬほどの文人墨客は、俗世間から放れ、密かに隠れ住むことを夢に見て、(自然の中に身を任せ)山水の間に情を寄せていた。人生を自然の一部分と見なし、自然を唯一の友とした詩人や画家たちによって描かれた自然景観(現実には存在していないものかもしれない)は、しばしば抽象化、符号化され、代々伝わってきた。その一例が、「瀟湘八景図」である。


・「瀟湘八景図」の舞台

瀟湘八景図」の「瀟湘」とは、中国の洞庭湖に注ぎ込む瀟水と湘水の二水を指す。清代画家穆煕は、その画「瀟湘八景図冊」の序で次のように語っている。「瀟水出道州、湘水出全州、至永州而合流焉。湖而南皆二水所経、(中略)湖之南皆可瀟湘注三」。瀟水は、湖南省の藍山県の南にある九嶷山に源を発し、北へ上って、零陵県の蘋洲で湘水と合流する。全長三百三十六キロの川である。一方、湘水は、江西省僮族自治区興安県の陽海山を源とし、延々と八百十七キロの旅をして、湘陰県濠河口で洞庭湖に注ぐ。洞庭湖は、湖南省の長江中流の中南区に位置する。中国第一の湖である洞庭湖は、現在、養殖漁業の漁場として有名で、その近辺は、”魚米之郷”(魚と米の郷)と呼ばれる富裕な地として知られる。地名としての「瀟湘」は、普通極めて広く瀟水と湘水とが合流する場所を指し、また、瀟湘、蒸水、?江の合流によって瀟湘、蒸湘、?湘を区別されることもある。狭義の瀟湘は、三湘の一つであり、瀟水と合流した後の湘水中流流域を指すが、実際に詩文や絵画に描かれた瀟湘は、穆煕の言うように洞庭湖から南の瀟水と湘水のもっと広い範囲が含まれている。

この地は、水域が広く湖泊も多い。年間降水量は千三百ミリ以上にもなり、雨季には洪水も多く発生する。秋冬になり、水位が低くなるにつれて、河岸や小鳥などが、少しずつ顔を覗かせる。水が引いた後の砂地に微生物が多いため、南に帰る雁などは、ここを越冬の地に選んでいる。ここ一帯は、四季の景色の変化に富んでおり、時に霧に包まれ、時に燦燦と日が照る。そして、瀟水と湘水が合流するこの地には、湿潤な大気に満ち、季節の移り変わりや様々な気象の変化によって、それぞれに愛でるべき風光明媚な風景が発生したという。また、洞庭湖の湖中には君山があり、その影を湖面に投影し、日月が、そこから出入りするかのようであるとされている。この地域は古代の神話や歴史的な古跡にも恵まれ、古くから伝わっている湘君(娥皇)と湘夫人(女英)の物語は、瀟湘地区に神秘的な雰囲気をもたらし、湘水の神である湘君は、一説に堯の女で舜の妃となった娥皇女英で、江湖の間に投じて神となったといい、その祠があり、この湘君を『楚辞』注四の中で詠った屈原が、身を投じた汨羅の淵の水注五は、流れて湘水に合するものであり、その屈原の墓である屈原塔もこの地にあったのである注六。以上のように、瀟湘地区は、早くから景勝の地として知られ、ここを訪れる文人墨客は絶えなかった。杜甫も李白もここを訪れ、岳陽楼から洞庭湖の眺めを一望し、その美しさを詠っている注七。それゆえに、古来様々な神話や説話の舞台となり、何世紀にもわたって、何十世代もの詩人注八や画家たちによって繰り返しその美を讃えられた。やがて、この辺りの景色を八つに選定し、それぞれの景色を絵として描いたのが北宋の宋迪と言われる注九。沈括(一〇三一〜九五)は、その著書『夢渓筆談』で、

「度支員外朗宋迪工画、尤善爲平遠山水、其得意者有平沙雁落、遠浦帆歸、山市リ嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鍾、漁村落照、謂之『八景』、好事者多傳之。往歳小窯村陳用之善畫、迪見畫山水、謂用之日『汝畫信工、但少天趣。』用之深伏其言日『常患其不古人者、正在於此。』迪日『此不難之耳、汝先當求一敗牆絹素訖。之敗牆之上、朝夕觀之。觀之既久、隔素見敗牆之上、高平曲折、皆成山水之象、心存目想高者爲山、下者爲水、坎者爲谷、缺者爲澗、顯者爲近、晦者爲遠、~領意造、恍然見其有人禽草木飛動往來之象、了然在目則随意命筆、默以~會自然境皆天就、不人爲是謂「活筆。」』用之自此畫格日進注十」と語っている注十一

 宋迪は、「瀟湘八景図」を何点か描いたようであるが、ただ宋迪の作品は、今日「瀟湘八景図」はおろか他の作品も一つとして伝世していない。「瀟湘八景」についての紹介はこの辺で終わりにしたいと思う。



〈注釈〉

注一  わが国で、水墨画が描かれるようになったのは、奈良時代の「正倉院麻布菩薩像(墨画仏像)」(正倉院南倉蔵)や、平安時代の「鳥獣戯画」(高山寺蔵)など特殊なものを除いては、十三世紀後半以降になる。鎌倉時代までの我が国の絵画は、仏画や絵巻物に代表されるように、彩色中心の絵画であり、画家も一般的に言って、絵師や絵仏師と言われる、むしろ画工的な職人が多かった。

禅僧自身が、技術として輸入したものは、簡単な人物画や花鳥画といった余技的なものであった。鎌倉時代末期ごろから、南北朝時代にかけて禅僧が賛をした達磨図など禅宗の祖師や梅・蘭などを描いた水墨画が多く見受けられる。簡単な筆致で形をつくり、上に自作の詩をかいたもの、あるいは、他の僧が賛をしたものなど造型的には特に優れているとは言い難いが、簡略な筆致のうちに、よくものの要点をとらえた、しかも、作者である禅僧の高い風韻を潜めている。このような作品は、それまで我が国の画壇には、見られることのなかったもので、新しい時代の曙光を感じられる。

   松下隆章『水墨画』(日本の美術NO一三)至文堂 一九六七・五・一 二四〜二八頁を参照した。

注二  張景翔「瀟湘八景源流初探」(『日本美術の水脈』ペリカン社 一九九三・六・二二 七五八頁)

 

注三  張景翔「瀟湘八景源流初探」(『日本美術の水脈』ペリカン社 一九九三・六二二 七五八頁)

注四    湘君

   君不行兮夷猶 

   蹇誰留兮中洲

   美要眇兮宜脩

   沛吾乘兮桂舟

   令?湘兮無波

   使江水兮安流

   望夫君兮未來

   吹參差兮誰思

   駕飛龍兮北征

   ?吾道兮洞庭

   薜茘拍兮帙a

   ?橈兮爛旌

   望?陽兮極浦

   横大江兮揚靈

   揚靈兮未極

   女嬋媛兮爲余太息

   横流涕兮潺湲

   隱思君兮俳側

   桂櫂兮爛

   ?冰兮積雪

   采薜茘兮水中

   搴芙蓉兮木末

   心不同兮媒勞

   思不甚兮輕絶

   石P兮淺淺

   飛龍兮翩翩

   交不忠兮怨長

   期不信兮告余以不間

   ?騁?兮江皐

   夕弭節兮北渚 

鳥次兮屋上

   水周兮堂下

   捐余?兮江中

   遺余佩兮?浦

   采芳洲兮杜若

   將以遺兮下女

   ?不可兮再得

   聊逍遙兮容與

  (衆巫唱う。女巫湘君に扮して上堂、しばし止まり、やがて、ゆるやかに舞つつ去る。)湘君は、こちらに来ないで、ためらっておられる。ああ、川の中島で誰を待っておられるのであろうか。(夫の舜帝を待っておられるのであろう。)かの君は、まことに美しく、お化粧も衣裳もほんとに似つかわしい。(主祭者ー男巫ー上堂、舞いつつさまよう。)私は、すべるがごとく肉桂の舟を乗りだした。願わくは、?・湘の川をして波無からしめたまえ。大江の水をして静かに流れさせたまえ。かの君を簫の笛を吹いて誰のことを思っておられるのであろう。(舜帝のことを思うておられるのであろう。)私は、空飛ぶ竜に舟を引かせて北にゆき、転じて洞庭湖に道をとった。薜茘をば舟の壁代にし、それを宸ナ束ね縛り、?ので漕ぎ蘭の旗を舟にうちたてた。さて、?陽の曲がった岸の遥かに遠い水ぎわを望めば、かの君は大江いっぱいに霊光を揚げておられる。霊光を揚げてまだ終わらないころ、(助巫ー巫女ー上堂。)君の侍女は、あわれな私に心を惹かれて溜息をついている。私は、とめどなく涙が流れ、君を思い痛んで悲しみもだえる。肉桂の櫂に木蘭の竅A氷をきりくだいて進むと、氷の屑が積って雪のよう。まるで薜茘を水中に採り、蓮の花を木梢に取るようで、心が合わねば媒人が無駄骨を折り、愛情が深くないと縁が切れやすい。石だらけの浅瀬に水はさらさらと流れ、舟を引く竜はひらひらと進むが、交わりにまごころが欠けているのだから、怨みは長く、会う約束を守らないで、私に暇が無いといってよこした。朝の間は川辺の沼択地を馬車で馳せまわり、湘君を求めたが会うことができず、夕方になって洞庭湖の北岸に車を止めると、鳥は屋根の上にやどり、水は堂の下をめぐっている。まことに物さびしい景色である。わが?を江中にすて、わが佩を?浦にすて、やがて湘君の目に触れ、せめてわが意のあるところを知られたい。芳草生うる中島の杜若をとって君の侍女におくり、君にとり成してもらいたい。時はふたたび得られないから、しばらくあたりをさまよいゆるゆるとしていよう。

 藤野岩友氏の『漢詩選3 楚辭』集英社 一九九六・一二・二五 七九〜八三頁

注五    秦の猛将白起は、夷陵を焼き屈原の故郷である郢都(郢は楚の都であり、江南に追放されていた屈原が晩年に故郷の郢都を懐かしんで作った詩「哀郢」がある。)を落とし竟陵に至る。頃襄王は、逃れて都を陳城に移す。屈原、郢都陥落の悲報を聞き「懐沙」を作り汨羅の淵に投じて死す。

     竹治貞夫『中国の詩人@屈原』集英社一九八三・三・一〇を参照した。

  注六  「汨羅」の位置については、『水経注』(巻三八、湘水)に

    汨水又西して屈潭と為る、即ち汨羅淵なり。屈原沙を懐きて自ら此に沈む、故に淵潭屈を以て名と為す。昔賈誼・史遷、皆嘗て此を逕、?を江波に弭めて淵に投弔す。淵北に屈原廟有り、廟前に碑有り。

    と記す。今日も湖南省汨羅県の県城の北を汨羅江が流れ、北岸に屈原の墓と祠とがあるが、屈潭は汨羅江が、昔の川筋を少し北方に変えて洞庭湖に流れこむため、干上がって工場の敷地になっているという。

  竹治貞夫『中国の詩人@屈原』集英社 一九八三・三・一〇 二四六頁

  

注七     登岳陽樓 杜甫

    昔聞洞庭水

    今上岳陽樓

    呉楚東南?

    乾坤日夜浮

    親朋無一字

    老病有孤舟

    戎馬關山北

    憑軒涕泗流

 昔から洞庭湖の壮観は話にきいていたが、今思いがけずこの地に漂流して、始めて岳陽樓に上がって眺めやる。呉・楚の地がこの湖によって、東南にひきさかれ、その水面ははてもなくひろがって、天地が日夜その上に浮かんでいる。思えば親戚朋友からは、一字のたよりだにもなく、老病のわが身には、ただ、一葉の小舟があるばかり。山々にへだてられた北の故郷は、今も戦争が打ちつづいて、帰ってゆくこともできぬ。私は欄干によりかかって、覚えず涙を流すのである。

    目加田誠『漢詩体系 第九巻 杜甫』一九六六・一・一〇 三三〇〜三三二頁

  陪族叔刑部侍郎曄及中書賈舍人至遊洞庭五首

    洞庭西望楚江分

    水盡南天不見雲

    日落長沙秋色遠

    不知何處弔湘君

 洞庭湖に舟を泛べて西の方を眺むれば楚江に分流して湖に入ってゐる。南の方は水の盡きる處(水平線)に接する天は雲一つ見えずリれ渡ってゐる。やがて夕日は落ちて長沙の方は秋に色づいた樹木が遠く見えてゐる。ただ廣々として何處に湘君を弔ってよいやら分からない。

      其二

    南湖秋水夜無煙

    耐可乘流直上天

    且就洞庭?月色

    將船買酒白雲邊

    南湖の秋の夜は水上煙一つ無くリれ渡ってゐる。流れに乘じて直ちに天に上りたいやうな氣がするが其れは出來ない。ままよ、せめて洞庭に就いて月色を掛け買ひしておき、船を漕ぎ寄せ酒を買って白雲の邊で飲まう。

    其四

       洞庭湖西秋月輝

    瀟湘江北早鴻飛

    醉客滿船歌白紵

    不知霜露入秋衣

   洞庭湖の西に秋の月は輝き、瀟江・湘江の北は早く來た鴻雁が飛んでゐる。醉った客は船に滿ちて白紵の曲を歌ひ、夜ふけて霜や露が秋衣に沁み透るのも氣づかない。

    木正兒『漢詩選8 李白』集英社 一九九六・一〇・二三 二五九〜二六一頁

 岳陽楼から洞庭湖を眺めるために入場料と引き換えにもらったチケットの裏に載せられた詩には、

    楼観岳陽尽 川迥洞庭

    雁引愁心去 山銜好月来

         唐 李白

注八  代表のものとして以下のものが挙げられる。

歸雁    錢起

   瀟湘何事等間回

水碧沙明兩岸苔

二十五絃彈夜月

不勝C怨卻飛來

 この瀟湘の地方をどういうわけで,むげに見棄てて北の國に歸ってゆくのか。水はみどりに透きとおり、砂は白く霜のようにきれいだし、兩岸はみずみずしい苔がむして、じつに美しいところなのに、どういうわけなんだ。

 月夜の空に向かって、この川の水~が二十五絃の瑟をかなでたもうのを聞くと、そのしらべのCらかな悲しさに堪えかねて、それで北の方へ、飛びたってゆくのだよ。

   齋藤?『漢詩選7 唐詩選(下)』集英社 一九九六・九・二五 三一六頁

  

新亭渚別范零陵雲  謝?

洞庭張樂地 瀟湘帝子遊

雲去蒼梧野 水還江漢流

停驂我悵望 輟棹子夷猶

廣平聽方籍 茂陵將見求

心事倶巳矣 江上徒離憂

あなたのこれから行かれる途中の、洞庭山は、古は黄帝が咸池の楽を布き列ねて秦したところであると伝え、瀟水・湘水のほとりには、昔、堯帝の子、舜の二妃、娥皇・女英が遊んだという。東のかたを見れば、雲は遠く蒼梧の九嶷の山に去っていく、これぞ帝舜崩御の地である。また、ここ渚には、零陵の水が、長江・漢水の流れとなって、西の方から還って来る。このように思っては、車の添え馬をとどめて、別れゆく君を悲しみながら私が眺めていると、棹をさす手をやめて、君もためらって去りがたくしておられる。昔広平の太守周処が訟を聴いて有名だったのにも似て、今や君の評判がひろまろうとし、漢の司馬相如が茂陵の下にいた時のように、私もこれからあなたのお陰で、文章を以って求め用いられようとしていた。しかし、心に願うこれらの事はすべてもうどうにもならぬことである。私は近く引退しなければならないので、ただ、むなしく長江のほとりで君を思って、憂いに離り悲しむばかりである。

星川清孝『漢詩選5 古詩源(下)』集英社 一九九七・二・二六 二五六頁

注九   島田修二郎氏の「宋迪と瀟湘八景」(『中国絵画史研究』中央公論美術出版一九九三・三・二五 四六〜四七頁)によると『夢渓筆談』にある宋迪によって瀟湘八景が創造されたと言う記載が一般に信じる所となっているが異説があるわけではない。

第一に、宋迪よりも早く五代の末、北宋の始めの人で、宋迪が師としてその画を学んだと伝えられる李成に始まるとする説があるとされる。それは、米?の瀟湘八景詩並びに序にある。それは、米?が長沙において、李成の瀟湘八景図を購入し手に入れ、その優れた画趣を詩に詠んだものであるが、現存する米?の『宝晋英光集』には収められていない。米?の『画史』(李成画には、ほとんど真本がないことを述べようとした)の中に、彼が通眼してきた李成画が記載されているが、瀟湘八景図は見出されない。従ってこの瀟湘八景詩と序の言うところの李成の瀟湘八景図は、かつて、若い米?が李成の筆と認めたものであるとしても、後に彼によって否定されたと見なすべきであろうと述べている。

   第二に『宋景文集』の渡湘江と題する五言絶句に「真観八景図」という句がある。これが、北宋の宋 の作とすると宋迪以前にすでに八景が流布し、画によって山水を見るまでになったとしなければならないが、この詩は、南宋の張?の作とされ、宋代の選集である『南嶽総勝集』「声画集」にも張氏のものとされている。島田氏は、恐らく張氏のものであると述べている。

   第三に、郭若虚の『図書見聞誌』に、黄筌に瀟湘八景の製ありとされるが、島田氏は、八景が八寿の誤りと見ている。そして、湘江にまつわる古い伝記・女英娥皇の哀話を書いたものを先ず想像すると述べている。

   このように、瀟湘八景図が宋迪によって創造されたことに対する異論は、島田氏によって否定された。

                                                       

注十  楊家駱編『夢渓筆談校證 上册』世界書局 一九六一・二 五四九頁の白文に鈴木敬『中国繪畫史 上』吉川弘文館 一九八一・三・二〇 二七四〜二七五頁の書き下し文を参照して返り点を加えた。

   度支員外朗宋迪は、画が巧みで中でも「平遠山水」が優れていた。画事の中で最も得意なものに、「平沙雁落」、「遠浦帆歸」、「山市リ嵐」、「江天暮雪」、「洞庭秋月」、「瀟湘夜雨」、「煙寺晩鍾」、「漁村落照」があり、これを「八景」と呼び、好奇心の強い人は、多くこれを伝えた。往歳小窯村の陳用之は、画が得意であった。宋廸は、この山水画を観て、陳用之に次のようなことを言った。「あなたの画は本当に上手だが、八景の本来の趣きを感じない」。陳用之は、その言葉に対して次のように述べた。「どうして、昔の人には及ばないのだろうか(いや、それはない)。宋廸は次にように述べた。「この点こそが最も難しいことである。最初にあなたは、本当の一幅を求めなさい。何も描かれていない一幅の絹本を使って、よく考えて朝夕にこれをよく見なさい。この一幅を長く見ることよって、やがて、高平曲折、すべて山水の形になる。心の中で、思い描けば、高いものは山となって、低いものは水となり穴は谷となり、連なるものは谷となり、明るいものは近くなり、暗いものは遠くなる。一種の神がかりとなって、形を作れば、忽然とその形は、人・鳥・草木などに変化し、明確に物事を捕えれば、すぐに描きなさい。静かに神を待つと自然と物事が成就するが、人だけの技量だけではできない。これを「活筆」と言う」。陳用之は、これから画業に専念することになる。

借用した本文を参考に現代語訳した。

注十一   「今日伝わっている〈瀟湘八景〉は、平沙落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照であり、沈括のいう〈瀟湘八景〉の名と三ヶ所が、異なっている。すなわち、平沙雁落が平沙落雁に、遠浦帆歸が、遠浦帰帆に、漁村落照が漁村夕照に、それぞれ変えられた。この八つの四文字の後の六組は、前の二文字が皆、地名を表わし、三つ目の文字が連体修飾語で、最後の一文字が景物を表現しているが、それに相応するために、先頭の二組もいつの間にか、落雁と帰帆に変えられたと思われる。雁落と帆帰の文字順を変更させた後、山市晴嵐と一緒に〈安〉の韻に統一され、響き上もいくらか良くなってきた。また、漁村落照を漁村夕照にしたのは、重複を避けるためで、すでに落雁があるから、一つの組み合わせとして落照と比べると、むしろ、夕照のほうが良かろう」と述べている。

    張景翔「瀟湘八景源流初探」(『日本美術の水脈』ペリカン社 一九九三・六・二二 七五九〜七六〇頁)

                                                 





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